笹川たかしの半生記

東京に生まれて良かった。
東京の学校で勉強することができて良かった。
東京で働くことができて良かった
東京は、私を育て、一人前にしてくれた。
企業家としても一人前にして頂いた。
今までの人生で身についた全ての力を
日本国にお返しさせて下さい。

私は、昭和10年(1935)10月5日、東京都文京区(当時は本郷区)で生まれました。
私の名前は、湯島天神の神主さんが付けてくれました。浅草田原町で育ち、浅草寺は幼い頃の遊び場でした。浅草田原町小学校に入学、3年生の時に戦争により、宮城県松島に学童疎開をしました。
昭和20年8月、敗戦により帰京、東京は焦土と化し、焼け跡には兄と私の二台の焼け焦げた自転車がありました。東京に住む家がないことが分かり、大阪に居た親類の二階一室を借りて、親子4人の生活でした。
小学校の残りの期間と中学校を大阪で過ごし、卒業後、私一人父親に引き取られて上京、渋谷区桜丘町で生活、明治大学中野高校に入学しました。
高校3年生の時に文京区林町に転居、明治大学法学部に入学しましたが1年で退学、父親の車の運転手兼秘書を務めました。
後に、従業員7人の零細企業に就職、20歳の時に江戸川区平井町に貸し工場を見つけて機械製造加工工場を設立しました。
その後、貸しビルを建設、群馬県太田市に工場を建設、印刷会社、アルミ製造会社、損害保険代理業、毛生え薬の販売業などを行い、群馬県桐生市に隣接する地で競艇事業を始めました。また、コンピューター製造販売会社と太田市にボート製造工場を設立しました。その工場に隣接して野球場を建設、少年野球大会を30年以上開催しています。
その後、会社経営から身を引き、公益事業を中心に活動しました。
時代は福祉社会となり、社会福祉法人親孝行の里を開設しました。その運営は理事長以下法人職員にお任せしておりますが、現在は次の団体を通じて、活動しております。

  1. 財団法人全日本空手道連盟会長、社団法人東京都空手道連盟会長として青少年に礼節に重きを置き、強い精神と肉体を育てるために活動、世界大会では日本人選手が多数の金メダルを獲得しております。
  2. 昭和42年、献血供給事業を設立し、現在会長として活動しています。東京都を中心に、血液事業を展開、1,300万都民の命を守る為に45年間で緊急出動39万回、合計で1,500万回出動し、日夜働いています。
  3. 四方を海に囲まれている日本で親水事業を始め、国際モーターボートレースに参加する選手をヨーロッパ、アメリカ等へ引率、活動し、国産エンジンの普及に努めました。現在は、水上スキーや水上バイクなどの普及に尽くしています。
  4. 財団法人全日本吟詠剣詩舞道連合会の会長として、日本古来の文化である吟詠、剣舞、詩舞道の普及発展を図り、日本人の情操を高め、関連団体各流のサポートをしています。

○政治活動について

<決断と実行>

38歳で群馬県第2区から衆議院議員選挙に立候補するも落選、その後病気のため政治活動を中断したが、昭和58年に再度衆議院議員選挙に立候補したが次点となり、61年に初当選した。その後7回連続当選したが、平成21年の選挙では、あれもこれもタダにするというマニフェスト詐欺に遭い、落選してしまった。

議員在職中の主な役職は次に掲げるが、政治の基本姿勢として弱者の方々の為に働かせて頂きました。
政   府:科学技術政策担当大臣、郵政政務次官
衆 議 院:議院運営委員長、予算委員長、法務委員長、地方分権特別委員長
自由民主党:総務会長、党紀委員長、政治倫理審査会会長、治安対策特別委員長、行刑行政特別委員長

<主な活動成果>

  1. 薬害によりエイズに罹患した被害者に補償金を支払う運動を展開、国と製薬会社、患者との和解が成立しました。
  2. C型肝炎の補償問題で、東京高等裁判所から和解勧告が出た折、当時の福田康夫総理に対し、自民党総務会長として和解を受け入れるよ う助言、解決を図りました。
  3. サリン事件で死亡されたり被害を受けた方々に対し、補償金を支払う特別立法を行い、被害者の会の会長から感謝状を頂きました。当時、公明党では大口先生、民主党では枝野先生、自民党では早川先生が事務局長として協力して下さいました。サリン被害者の会 高橋会長より感謝状をいただきました。
  4. 自民党の治安対策特別委員長として弱者救済のため、貸金業の上限利率を29%から20%に引き下げることができました。また、過去に支払った金利も最高裁判所の決定により返却することになりました。
  5. 自民党の行刑行政特別委員会委員長として、明治時代以来改正されていなかった監獄法を改正し、受刑者の保護等数々の改善を行い、受刑者が更生できる環境の整備を行いました。
  6. 自民党治安対策特別委員長として、警察官、裁判官、検事、法務省の事務官の増員に努力、この仕事は議員生活が終わるまでの長期に亘って努力しました。
  7. 日本や東京都の未来は、科学技術の発展以外に道はない。初代科学技術政策担当大臣時代に、失敗続きだったロケットの打ち上げに成功、以後失敗はない。ノーベル賞の受賞も続き、世界一を目指し続ける姿勢こそが、我が国を発展に導くに違いない。

○趣 味

<若い頃>

一級船舶操縦士。モーターボートレースに出場、優勝、入賞多数。
船外機D級日本記録保持者
水上スキー
野球
ゴルフ(ハンデキャップ9)
自動車、大型バイク運転

<現在>

水上ジェット運転
自動車運転(40年間無事故無違反)
中型バイク運転
ゴルフ(ハンデキャップ15)
少年野球大会主催(30年間)

 

政治家笹川たかしの歩み

○生まれ

昭和10年10月5日生 東京都文京区本郷で生まれ、現在は世田谷区に在住

○経営者として

20歳で赤字の中小企業を引き受け切り回し、会社経営の厳しさを学ぶ。そうした過程で、従業員、経営者、取引先、金融機関、それぞれの考え方を学んだ。

○福祉、医療について

昭和42年、財団法人献血供給事業団を創立、医療を支えるために日本赤十字社と共同して都民の命を守ってきた。現在は会長となり、緊急自動車を70台保有し、1300万都民をはじめ、多くの住民のために努力している。
妻は、昭和37年に手術を受けた際、C型肝炎に罹患。平成8年に亡くなっている。そうした環境で肝炎患者の気持ちを理解している。
その後、社会福祉法人の設立を行い、高齢者福祉の現場を知る。

○政治家として

国民の生活を考えたとき、政治が大切な役割を果たしていることを知り、昭和47年に衆議院議員選挙に挑戦した。その後昭和61年に衆議院議員に初当選、臆することなく、媚びることなく自分の信念に基づいて政治の道を歩み、政党を問わず仲間が多い。
政治家は疑われること自体が自らの責任であると信じ、政治資金や寄附を企業から受けずに政治活動をしてきた。
平成20年秋、民主党の詐欺的なマニフェストによる選挙で落選したものの、政治に対する情熱は膨らむばかり。現在、政治経済評論家として活躍中。

○実 績

C型肝炎患者救済(自民党総務会長として福田総理に提言)
薬害エイズ対策の提言(エイズ問題を国会で取り上げたのは、最も早かった。その後も和解に導くため努力)
サリン被害者救済(議院運営委員長として)
犯罪被害者補償費の増額(自民党治安対策委員長として)
犯罪者の処遇改善(行刑行政特別委員長として 犯罪者の更生のため)
高金利の引き下げ 29%から20%に、払いすぎた金利の返還を進める
最高裁判所で取り過ぎの判決、金利は償還されている。

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